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2015年11月24日火曜日

室町時代末期に建てられた尾張(愛知)「岩崎城」!

当時尾張国の東端、国境付近を守る織田信秀の(織田信長の父)支城でした。城は1600年関ヶ原の戦いのときの城主丹羽氏戦功をたて、徳川氏に認められ 一万石の大名へと昇格し、城も現伊保(豊田市)へ移ったことにより、廃城となりました。写真の建物は展望塔岩崎城として、昭和62年建設したもの。

 

2013年10月21日月曜日

武節城と道の駅 どんぐりの里いなぶ!

城は戦国時代1504年~1521年田峯菅沼氏の支城として築城:その後1556年武田信玄の家臣・下条信氏の侵攻を受ける。1560年今川氏より桶狭間合戦で感謝状がでている。1571年武田信玄の攻略に会う。1573年徳川信康が落城させる。また逸話として長篠合戦で敗北した武田勝頼は甲斐に帰る途中、武節城に入城し、このときに梅酢湯を飲んだ話は、この地では有名です。1590年家康の関東移封に従い、廃城になる。それにしても現在の愛知県・岐阜県・長野県の国境に位置したため、戦国時代は重要な城であったことが考えられます。城跡へ道の駅から6分でいけます。尚近くに関谷醸造があり、人気の蓬莱泉 空が道の駅で購入できますよ!!

2013年9月22日日曜日

2013年4月7日日曜日

弘法大師が上陸した大井海岸!!


814年諸国行者の途中、三河から海路知多半島を南下し、南知多町・大井聖崎に上陸されたと言われています。数十年前上陸地を記念し上陸地に像が作られ公園も整備され、今では毎年早咲きの河津桜の観光名所になっています。


2013年3月24日日曜日

戦国時代 武将の菩提寺!!

宇宙山 乾坤院(うちゅうざん けんこんいん)
愛知県東浦町内にあります。徳川家康の実母 於代の方(伝通院)の生家水野家(1475年戦国武将、水野貞守・緒川城初代城主が寄進)の菩提寺で徳川家康が江戸幕府を開いた後、於代の方が三里四方の山林を寄進したと伝えられている。境内は2万坪におよぶ・・・近くに於代公園があり、毎年4月八重桜の下盛大に於代まつりが開かれる。

2013年2月11日月曜日

今日は建国記念日 二千年以上の歴史を持つ日本!!

(京都 平安神宮を撮影)
日本を愛そう、誇りを持とう!!
縄文時代から国土、国家、言語を持ち、一億人以上の人口を
擁しているのは世界で日本だけであり、日本は世界で現存
する唯一の古代国家なのである。同時に皇室も二千年以上
続いて来た。他の国で日本に次いで長い歴史を持つ国は
デンマークである、デンマークは建国から千数十年が経過
したが、日本の半分以下である。英国は千年に満たない
中国に至ってはまだ六十年程度の歴史しかない。
皇室は二千年以上無防備な堀のない御所に住んできた
竹田恒泰著(日本はなぜ世界で一番人気がある)より抜粋
竹田氏は旧皇族竹田家に生まれ、明治天皇の玄孫にあたる。

城壁及び堀の無い無防備な御所で国を治めていた歴史は
誇れます。平和主義の思想が強かったのでしょうね。

2012年12月13日木曜日

小笠原諸島の名づけ親!!三河 寺部城小笠原氏

三河幡豆、小笠原氏の時 文禄二年(1592年)家康の許しを得て南海に渡航し
小笠原諸島を発見する。小笠原貞頼が発見したことに因んで名づけられたものと
いわれます。三河時代は徳川の船手衆として活躍。
秀吉の朝鮮出兵のとき軍検使をつとめる。
天正18年(1521)上総の国(房総半島富津崎)に領地をたまわり、江戸湾を
守る御船手をつとめる。
慶長5年(1600)関が原の戦いには、寺部城の信元、欠城の広勝とともに師崎
(もろざき)の城を守り、九鬼水軍の押さえを果たし、敵船を乗っ取るなどの活躍を
する。


山の上にあり、三河湾が一望できます。敷地面積は小さく館と
要塞の砦があったようです。

2012年10月19日金曜日

秋の鎌倉を散策!!

秋の観光シーズンに入ったのか、就学旅行の学生達、外国からの観光客、団塊世代の団体さん等など鎌倉のロケーションを楽しんでいる姿を多数みかけましたが、問題の国々の方々の姿は少し少ないように感じました。
世界遺産候補の鶴岡八幡宮を筆頭に 武家の古都・鎌倉として、文化庁が文化財をすでに世界遺産に推薦したそうで、来年結果が出るそうですが、良い結果が出ることを期待したいですね!!


大仏さんの中に入って撮ってみましたが、コメントは無しです。

後姿を撮って見ましたが、暗いですね 心も暗くなります。
やはり手を合わせ、語りかけるのは正面からですね。

世界遺産候補の鶴岡八幡宮ですが、決定すれば一番人気のスポットに
なるでしょうね。

2012年9月10日月曜日

吉良上野介の先祖が築城した??西尾城

西尾城に行ってきました。閉館5分前でしたが係りの方の
ご好意で見学させていただきました。感謝です!!
築城の歴史は古く1221年足利義氏築城の資料があり
当時矢作川をはさんで東条城・西条城築き西条城が今の
西尾城で足利氏は吉良の名字に変更したとの説明があり
東条城は吉良上野介の領地現吉良町に築城された。
吉良上野介はその末裔かも、その家柄で江戸時代優遇
されていたのかもと思わされました。本日は情報的には
収穫がありました。
吉良上野介の菩提寺(西尾市吉良町内)近くに、東条城が復元されています。初期の城で
城と言うより外観は砦そのもの、戦う為の要塞に見えます。織田信長の時代より前の作りで
天守閣のある城ではありませんが見る価値はあります。

2012年8月26日日曜日

家康の母! 於大(伝通院)が後妻として嫁いだ阿久比城主!!

阿久比城主郭跡(知多半島道路阿久比IC下車) 

1546年久松俊勝は水野信元の妹お大(伝通院)を
後方に向かえた(徳川家康を生んで離縁された後)
その後久松氏の間に三男四女を儲けた。
1560年桶狭間の合戦で、今川方だった家康は
阿久比城(織田信長領)を訪れ、3人の弟と対面し
(康元、勝俊、定勝)に逢い、葵紋と松平姓を授けた
という。その後三人とも大名にとりたてられたと
言われている。
久松家の先祖は菅原道真の孫雅規と
されている。(阿久比城資料より)
別名坂部城と呼ばれ、東西72m南北90mの平城で
現存するのは内堀だけ、現在は公園に隣接して
阿久比町図書館と1494年創建した久松家の菩提寺
洞雲院があります。
戦国時代の歴史ある場所であり、一度は訪ねて
見るのも良いと思います。
写真にある石塔は松平定知氏来山とありますが、元
NHKアナウンサー松平氏です。徳川家康の異母兄弟で
この阿久比城で生まれた三男 久松定勝を祖とする
伊予松山藩久松松平家分家(旗本)の子孫にあたる。
アナウンサー時代のニックネームは「殿」!!

2011年7月20日水曜日

本丸未完成の城 吉田城(愛知豊橋市)



クリックすると大画面になります
1590年豊臣秀吉により家康が関東に移封されると池田輝政が東三河
4郡を統いる15万2千石の城主となった。 
輝政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋の架け替えを行った。
整備は11年間にわたって行われたが  関が原の戦いの翌年1601年輝政は
姫路に移封され現存する城跡は近世の城跡であるが 輝政の統治下では
完成しなかった。
石垣は名古屋城築城の際に余った石垣を転用している部分があり
土佐藩の印も  数々の城主が見受けられる。
江戸時代、征夷大将軍の徳川将軍家の下で、吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれた。
東海道の要地(吉田の宿)の1つに挙げられたため、3万~8万石の藩代大名のみに託されるが、
国替えは頻繁であつたため ほとんどの藩主は菩提寺を吉田に造らず、唯一小笠原家
4代の廊の有る臨済時(通称 殿様寺)のみである。(豊橋市東田町内)
11万石の城主の築城計画は規模が大きすぎて、後の大名では本丸まで完成できなかった
ようです。(豊橋市教育委員会資料)参考資料 ウィキペディア


2011年5月28日土曜日

江姫ゆかりの地(浅井三姉妹) 三重県津城!上野城を訪ねて!!

三重県の県庁所在地にある城跡ですが、1569年頃は伊勢国安濃津(あのつ)と呼ばれていた。
当時は尾張国の織田信長の勢力範囲内であったと言われている、尚津市内には上野城(伊賀
上野城とは違う)があり、織田信長の弟・信包が安濃城(津城)完成までの間仮の拠点として、
利用していたそうです。浅井三姉妹はその頃滞在していたようですね。
上野城を訪ねてみると当時の面影はなく、公園化されており、写真は撮りませんでした。


入徳門(藩校有造館講堂正門) 市指定文化財

堀・石垣は県指定史跡

藤堂高虎公
津城は藤堂氏32万3千石の本城で典型的な平城。
滋賀県甲良町の生まれで、父親は浅井長政の家臣であったとのこと
尚藤堂家は江戸時代を通じてこの地を動くことなく12代世襲して明治に
至ったそうです。

西の丸跡
現在は日本庭園になっています。

2011年4月7日木曜日

江姫が 嫁いだ知多半島大野城!!大河ドラマは今週放映です


於犬の方(織田信長の妹)
 江姫は 現代版転勤族婦人の様ですね!!
滋賀小谷城に始まり、阿野津城(三重)上野城(三重)清洲城(愛知)北ノ庄城(越前)安土城(滋賀)
大野城(愛知)江戸城(東京)など等!!   たくさんの城に住んだようです。
大河ドラマの影響から 本日私の地元である大野城を訪ねて見ました。やはり想像したとおり歴女から
老夫婦まで10数人の江姫ファンの方々がお見えになっていました。
江姫の嫁ぎ先は織田信長の妹於犬の方を妻としている佐治八郎信方で、その嫡男与九郎一成16歳姫は12歳でした(1584年天正12年) 従兄弟同士ですね。
大野城  写真の建物は展望台で当時の建物を復元したものではないそうです。

佐治神社
城は、南側低いところが空堀で、佐治神社のある一段と高いところが
物見櫓があったようです。

展望台からは、織田有楽斉が築城を始めた大草城の城山が眼下に見えます。

大野水軍の軍船
その後豊臣秀勝の元に嫁ぐ2年弱の間に2人の子供を儲けたとのこと(常滑市教育委員会資料他参考)

2011年3月24日木曜日

幻の城 大草城!!


本丸から水掘りに下る通路です、整備されています。

外堀は完璧に完成しています、また本丸、二の丸の用地も整備されており
土塁も出来上がっています、築城寸前だったようです。
戦国時代は現代の転勤族のようにめまぐるしく、住む場所が変わって
いたようですね。
堀の中は鯉が、水鳥が数10羽生息しているようです。
織田信長の弟で、後に茶人として名を挙げた源吾長盛(有楽斎)が大野城から
大草に築城しようとして、途中で断念した「幻の城」である。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が暗殺され、長盛も天正12年(1584)
の長久手の合戦後、しばらく秀吉に仕え摂津国味舌(現大阪府三島郡三島町)に
転封された、このため地形普請が大体終ったところで放棄され、廃城となった。
保存状態がよいのは尾張藩の徳川義直、光友に仕えた重臣、山澄淡路守英龍が
大草を給地され寛文6年(1666)に城址の西南方に屋敷を構えるなど、歴代の
支配者が保存に力を注いだためであるとされている(知多市資料より)



2011年1月12日水曜日

河和城祉をたずねて


4月は桜が咲き 遠い昔の人々の暮らしを思い浮かべてみると
楽しいかも知れませんよ!!

吉良町 東条城砦



河和城の空堀跡  1500年~1590年廃城まで90年間存在していた訳ですが、以後421年経過した現在まで
まだ当時のまま残っている横堀(空掘)です。(美浜町文化協会資料)貴重な史跡です。


横堀

曲輪

土塁です。

主郭のあった所です。 広いですね!!河和区の区会議員歴代の方々の記念樹(桜の木)が
たくさん植えてありました。 なんとそれぞれの木に名前がついています!!
きっと名前の主が管理するのでしょうね?
何年後か花見の宴が出来そうです 楽しみですね。

河和城の支城となった富貴城跡、岩田氏が長尾城(武豊町)の支城として築城か。
後に戸田氏河和城の支城として戸田孫右衛門(河和城城主の弟)が入城する。
戸田氏は今川の傘下のため、桶狭間の合戦後、織田。水野の連合軍に攻められ
その後廃城となる。神社裏手に廻ると堀跡が見える。神社と左手にある
円観寺が城跡だそうです。    築城室町後期/1560年
城跡への登り口  写真右手が駐車場になっています。

登り口はかなり急勾配です。

城口観音!!城への入り口があった所でしょうか ?


今年は戦国武将のルーツを、昨年以上に訪れてみようと心に決めました。
年の初めのターゲットとして、地元の史跡 河和城跡がある城山を訪ねる
ことにしました。何度も訪れているところですが、ここに来ると城跡から三河湾 
が展望でき遠い昔の出来事が何となく見えるような気がします。
それと言うのも、河和城主末裔の一族に私の同級生が居たという事実が
あることも関係しているかも知れません。
タイトルの戦国武将のルーツを始めようと思ったのも、やはり同じ要因かも
知れませんね。
駐車場に車を止め、城跡に続く急勾配の階段に向かうと一組の男女と遭遇
お互い挨拶を交わしましたが、本格的なビデオカメラ持参しており気になり
尋ねると、河和の町に来て30年になり愛着が涌いてきたのかな、今年から
町の紹介をしょうと思いビデオ撮りに訪れたとの事、私と同じような思いの人に
城山でめぐり会えて少し楽しくなりました。

説明を追加

河和城 城主は江戸時代尾張徳川家に仕え、名古屋城下に尾張藩河和水野家上屋敷を構え
また河和には領主屋敷を構えていたとのこと。詳しい資料は残って無いとのこと、天保12年
河和村絵図から推察すると約5千坪の屋敷があったようです。建物は残存していた建物の棟札によると
安政2年9月とあるそうです
写真の建物は水野屋敷記念館として、旧屋敷の天井板など再利用し、建物の一部を復元したもの。
美浜町ホームページ/東浦町誌等参照
江戸時代末期の尾張藩重臣は家格は下でも有能な者が 選ばれることが多くなり その中で知多半島
の河和美浜町水野家と師崎南知多町千賀家もその例で  


知多厚生病院の後方に見えるのが河和城祉のある城山です。