2011年1月12日水曜日

河和城祉をたずねて


4月は桜が咲き 遠い昔の人々の暮らしを思い浮かべてみると
楽しいかも知れませんよ!!

吉良町 東条城砦



河和城の空堀跡  1500年~1590年廃城まで90年間存在していた訳ですが、以後421年経過した現在まで
まだ当時のまま残っている横堀(空掘)です。(美浜町文化協会資料)貴重な史跡です。


横堀

曲輪

土塁です。

主郭のあった所です。 広いですね!!河和区の区会議員歴代の方々の記念樹(桜の木)が
たくさん植えてありました。 なんとそれぞれの木に名前がついています!!
きっと名前の主が管理するのでしょうね?
何年後か花見の宴が出来そうです 楽しみですね。

河和城の支城となった富貴城跡、岩田氏が長尾城(武豊町)の支城として築城か。
後に戸田氏河和城の支城として戸田孫右衛門(河和城城主の弟)が入城する。
戸田氏は今川の傘下のため、桶狭間の合戦後、織田。水野の連合軍に攻められ
その後廃城となる。神社裏手に廻ると堀跡が見える。神社と左手にある
円観寺が城跡だそうです。    築城室町後期/1560年
城跡への登り口  写真右手が駐車場になっています。

登り口はかなり急勾配です。

城口観音!!城への入り口があった所でしょうか ?


今年は戦国武将のルーツを、昨年以上に訪れてみようと心に決めました。
年の初めのターゲットとして、地元の史跡 河和城跡がある城山を訪ねる
ことにしました。何度も訪れているところですが、ここに来ると城跡から三河湾 
が展望でき遠い昔の出来事が何となく見えるような気がします。
それと言うのも、河和城主末裔の一族に私の同級生が居たという事実が
あることも関係しているかも知れません。
タイトルの戦国武将のルーツを始めようと思ったのも、やはり同じ要因かも
知れませんね。
駐車場に車を止め、城跡に続く急勾配の階段に向かうと一組の男女と遭遇
お互い挨拶を交わしましたが、本格的なビデオカメラ持参しており気になり
尋ねると、河和の町に来て30年になり愛着が涌いてきたのかな、今年から
町の紹介をしょうと思いビデオ撮りに訪れたとの事、私と同じような思いの人に
城山でめぐり会えて少し楽しくなりました。

説明を追加

河和城 城主は江戸時代尾張徳川家に仕え、名古屋城下に尾張藩河和水野家上屋敷を構え
また河和には領主屋敷を構えていたとのこと。詳しい資料は残って無いとのこと、天保12年
河和村絵図から推察すると約5千坪の屋敷があったようです。建物は残存していた建物の棟札によると
安政2年9月とあるそうです
写真の建物は水野屋敷記念館として、旧屋敷の天井板など再利用し、建物の一部を復元したもの。
美浜町ホームページ/東浦町誌等参照
江戸時代末期の尾張藩重臣は家格は下でも有能な者が 選ばれることが多くなり その中で知多半島
の河和美浜町水野家と師崎南知多町千賀家もその例で  


知多厚生病院の後方に見えるのが河和城祉のある城山です。