2013年6月14日金曜日

戦国の武将!! 千賀志摩守

戦国時代から江戸時代初期の武将、(千賀重親)もともとは伊予(愛媛)の出身で、志摩国千賀
(鳥羽)に移りますが、織田信長方の九鬼水軍に攻められ一族は知多の須佐へ移住(豊浜)
佐治駿河守宗貞の家臣になる。師崎に尾張幡豆崎城(南北朝時代1336~1392年築)熱田
大宮司千秋昌能の居城とされる城があったが、1476年渥美の田原城主戸田宗光が幡豆岬に
進出し、千賀・戸田両者は幡豆崎に陣代を置いたが、たびたび争いを起こしていた、1492~
1500年戸田宗光の子憲光が占領し、手中に収めた。その後熱田大宮司千秋季忠の居城となるが1560年桶狭間の戦いの前哨戦で今川前衛隊の攻撃で戦死。1562年千賀重親が家康より
三河湾の固め、及び、御船奉行を命ぜられ幡豆崎城へ入る。1590年小田原征伐の後、家康の
関東移封に伴い、今の神奈川県三浦市三崎町へ移住、1000石を得る。関が原の戦いの際、
九鬼の軍船を知多より追い払い、師崎・篠島・日間賀島・須佐村・片名村・乙方村内で1500石を
得て、師崎に住んだ。1602年幡豆崎城を破却しその古材で、師崎的場に屋敷を築き住んだ。
(尾張幡豆崎城及び千賀屋敷資料より)
千賀氏の子孫は尾張藩の船奉行として代々仕えた、幕末(千賀與八郎信立明治5年没)
は官軍方として東征軍を指揮し遠征している。千賀志摩屋敷として名古屋堀川上流天王崎橋
付近にあった。御船行列之図、千賀志摩屋敷と常盤丸が現存している。
熱田大宮司の居城について・・・・・当時篠島は伊勢神宮の領地であったとされる。
千賀家の菩提寺が師崎でなく豊浜の正衆寺に??? 訪ねて見ました・・・推測ですが
墓から一族の住んでいた鳥羽の千賀町が正面に見えました。今も須佐の浦に来る前の
一族の墓は、そのまま現存しているそうです。
本名は越智氏とのことですが、三重県志摩の千賀町から尾張に来たことから、千賀志摩守
の名がついたようです。
尚寺には大阪夏の陣の戦利品 片皮陣太鼓が保管されているそうです。
久々に武将のルーツ歩いて見ましたが、戦国時代の人々の生活を想い浮かべながら探し
訪ねるとワクワクしますね!!




 
尾張藩 幕末最後の船奉行 千賀與八郎信立の墓

羽豆神社
明応9年戸田憲光、慶長6年千賀重親 時の支配者に
よって社殿改築が行われた。幡豆崎城はこの神社の
右奥に城址跡の石碑があります。
師崎町的場の千賀屋敷跡
入り口はコンビ二の駐車場になっていました。
十二社権現(明治に十二社神社に改名)
河和城主 戸田孫八郎の氏神であった(尾張恂行記)
河和城は孫八朗の父親で田原城・幡豆崎城主であった
戸田憲光が築城した。
十二社権現1470年駿河国富士山から勧請したとも
いわれている。(美浜町北方)

説明を追加

正面が映画潮騒のロケ地になった神島・右の半島が鳥羽千賀町・左は
伊良湖岬になります。千賀家の墓より見た景色・・・・
千賀一族が以前(戦国時代)住んでいた志摩半島が
ハッキリ見えます。(画面をクリックすると拡大します)


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