2012年3月31日土曜日

ウッドデッキの造作状況!!



左側少し高低さ有り、いまさらやり直し出来ないのです
プロでないので、これで良いのです。
根気の要る作業です!!

夏のBQで焼肉、魚介類等ワイン、ビールで乾杯!!
ひたすら完成を夢見てがんばっています。

星の庭の幼い忍者も成長しました!!

左は将来の大和なでしこ、候補です。

将来武士道が理解できている、日本男子に成長して
ほしいとひそかに思っています。(2010年5月8日
投稿の幼い忍者です。)

2012年3月23日金曜日

星の庭のウッドデッキ(手造り)作ります!!

昨年孫とテントを張り、バーべキュウを楽しんだ同じ場所ですが、昨年は
急な雷雨により、中止した経緯があり、また今年は孫も一人増え、3人に
なり、ゆっくり楽しむ事ができるようウッドデッキの増設を計画しました。
できるだけ予算は安価に抑えるべく、すべて手造りで材料費は4万円以内に
設定し、ホームセンターから材料を購入し現在製作中です。
進捗状況は、ブログで報告していきます。


既存のウッドデッキとの高さが中々あわず苦労しています、特に水平の出し方に苦労しました。
屋根もつける予定であり、製作日数は未定ですが、バーべキュウのシーズンまでには完成
する予定です。

2011年12月30日金曜日

大河ドラマ 平清盛に敗れた源義朝 最期の地

愛知県美浜町野間に野間の大坊(大御堂)があり、この土地は源義朝が平清盛に敗れ京から逃げる途中、味方の長田親子の裏切りによりこの地で果てた歴史上の場所です。
地元では大河ドラマに便乗し、グルメ・観光等いろいろ策を練っている模様です。
露天商の人達が、初詣の準備中でした。
国の重要文化財の指定を受けている鐘楼です
明日の大晦日は午後11時45分頃から鐘つきが行われます。
織田信長の三男信孝の墓も同じ敷地内にあります
武器を持たず風呂場で殺傷されたので、参拝に木刀を奉納しています。
長田親子の屋敷跡
源義朝が長田親子に襲われた湯殿跡
好奇心旺盛な小生も気になり、自宅から近いので本日訪れて見ました。

愛知 南知多町師崎の朝市(漁港)

説明を追加

網元 丸俊網 シラス漁のプロです(ちりめんジャコ)
焼いているのは、この時期しか味わえない こはだ(寿司ネタ)の干物
試食させていただきました。美味しいです!!

かね成海産 
シラスの加工が本業(ちりめんジャコ)の店です最高に美味しい
ちりめんジャコが購入できますよ。
年末(30日)の漁港で開かれている朝市を見学、名古屋では人気のある場所です。

東海道を 笠置温泉(京都)に向かう!!途中亀山、関宿に立寄る。

雑誌で笠置温泉を知り、手帳に書きとめておいたのを思い出し、早速知人を誘い出かけました。
東海道 関宿
東海道 亀山宿
亀山城址
櫓修理中で石垣しか見学できませんでした。
今回も有料道路は利用せず、国道一号線(東海道)の日帰り温泉ドライブです。

2011年11月8日火曜日

美浜・野間灯台!恋の南京錠!!

!!恋の南京錠 !!                                                       二人で南京錠をかけると恋が実ると評判が広まり、カップルの聖地となった! 愛知県・美浜町小野浦野間灯台!!
海に夕日が沈む姿が美しく、ロマンチックな気分が味わえるため、カップルが集まるようになった。
89年に海保が灯台をフェンスで囲うと、カップルが「いつまでも一緒」などと、、愛を誓う言葉を
ペンで書き込んだ南京錠をぶら下げるようになった。年間数千個かけられ、重みで柵が倒れた事もあり、美浜町が新しいモニュメント「絆」を誕生させた! (中日新聞より)
南京錠は、近くにある美浜町の観光施設「食と健康の館」で販売しています。
セントレア(中部国際空港)に近く、国際線の飛行機と夕日そして灯台ロケーションは素晴らしい
所です。
●灯台から徒歩で行くことが出来る観光と史跡!
●食と健康の館・・・塩作り体験、B級グルメ音吉定食(限定)要予約があります。
●和訳聖書頌徳記念碑
●野間大坊・・・源頼朝・義経(牛若丸)の父親源義朝の墓及び鎌倉幕府将軍時代 源頼朝が寄進
 した国の重要文化財などがある。
●また織田信長 三男 信孝の墓と最期の場所となった安養院があり、遺品も保管されている。

2011年7月20日水曜日

本丸未完成の城 吉田城(愛知豊橋市)



クリックすると大画面になります
1590年豊臣秀吉により家康が関東に移封されると池田輝政が東三河
4郡を統いる15万2千石の城主となった。 
輝政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋の架け替えを行った。
整備は11年間にわたって行われたが  関が原の戦いの翌年1601年輝政は
姫路に移封され現存する城跡は近世の城跡であるが 輝政の統治下では
完成しなかった。
石垣は名古屋城築城の際に余った石垣を転用している部分があり
土佐藩の印も  数々の城主が見受けられる。
江戸時代、征夷大将軍の徳川将軍家の下で、吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれた。
東海道の要地(吉田の宿)の1つに挙げられたため、3万~8万石の藩代大名のみに託されるが、
国替えは頻繁であつたため ほとんどの藩主は菩提寺を吉田に造らず、唯一小笠原家
4代の廊の有る臨済時(通称 殿様寺)のみである。(豊橋市東田町内)
11万石の城主の築城計画は規模が大きすぎて、後の大名では本丸まで完成できなかった
ようです。(豊橋市教育委員会資料)参考資料 ウィキペディア


2011年5月28日土曜日

江姫ゆかりの地(浅井三姉妹) 三重県津城!上野城を訪ねて!!

三重県の県庁所在地にある城跡ですが、1569年頃は伊勢国安濃津(あのつ)と呼ばれていた。
当時は尾張国の織田信長の勢力範囲内であったと言われている、尚津市内には上野城(伊賀
上野城とは違う)があり、織田信長の弟・信包が安濃城(津城)完成までの間仮の拠点として、
利用していたそうです。浅井三姉妹はその頃滞在していたようですね。
上野城を訪ねてみると当時の面影はなく、公園化されており、写真は撮りませんでした。


入徳門(藩校有造館講堂正門) 市指定文化財

堀・石垣は県指定史跡

藤堂高虎公
津城は藤堂氏32万3千石の本城で典型的な平城。
滋賀県甲良町の生まれで、父親は浅井長政の家臣であったとのこと
尚藤堂家は江戸時代を通じてこの地を動くことなく12代世襲して明治に
至ったそうです。

西の丸跡
現在は日本庭園になっています。