2012年9月28日金曜日

幼稚園の運動会!!



  運動会開催のプログラムを持参してくれた息子夫婦のため、カメラ持参で参加しました。
今は幼稚園児で無邪気なスナップすが、将来は”悩める大人達にならないよう育ってほしいですね!! 笑い”

2012年9月19日水曜日

ローカルな戦国武将!!河和城主”戸田憲光

昭和時代まで戸田憲光の末裔が住んでいた屋敷(江戸時代築)
尾張名古屋城 初代徳川義直時代から尾張藩士として、
また先祖が家康と従兄妹同士との理由から、城内に(二の丸)
上屋敷を構え特別な扱いを受けていた模様・・・・・
 
長禄年間(1457~1460)頃渥美田原城主の戸田宗光が築いたと
いわれている。当時知多半島の勢力図は海は伊勢の九鬼水軍、
陸は田原の戸田氏(今川方)、志摩の千賀氏、佐治氏、緒川の
水野氏が争っていた模様、その後織田信長領の前は南知多は
千賀氏河和、武豊の一部は戸田氏武豊以北は水野氏伊勢湾側は
佐治氏が納め、河和城は戸田憲光、繁光、守光と続き守光は
1590年に小田原攻めの際今川方として討ち死にした。
守光の子光康は徳川家康に仕え武蔵国足立郡大門郷500石を
知行のち旧領河和郷1460石に復帰した。姓を母方の水野に
(母親は徳川家康と従兄妹同士の関係)改姓し尾張徳川義直の
家臣になり、尾張藩士として幕末まで仕え河和を領した。現在も
子孫は町内に住んでいる。
写真は横堀跡で左上に土塁及び主郭跡がある。
天正17年(1589)年戸田孫八郎守光戦死後廃城となる。清洲会議
の7年後のことでした(三谷幸喜監督で映画化)明智光秀討伐後
7年前の桃山時代”天正10年6月(1582年)織田家領地再分配と
後継者決定の清洲会議が清洲城において開かれた。
時を同じく河和城の支城となった(長尾城(武豊町)の岩田氏築城)
富貴城(河和城主の弟戸田孫右衛門が入城していた)も桶狭間の
合戦後、織田・水野の連合軍に攻められ廃城となった。

三河戸田氏

源流は尾張国海部郡戸田(現・愛知県名古屋市中川区戸田一帯)に拠って戸田氏を称したという。
戸田氏の嫡流は徳川家康の異父妹と婚姻して松平姓を授けられた松平康長以降、松平丹波守の
称号を継承し、葵の紋所を許されるなど江戸幕府より厚遇され江戸十八松平の一つ。
嫡流は松本藩、支流は宇都宮藩七万石光忠系・美濃国大垣藩十万石の一西系等譜代大名として
6家が幕末に至った。

徳川家康と戸田氏の関係

戦国時代中期のころ、戸田氏牧野氏を抑え、三河を統一仕掛けていた松平清康急死により、跡を
継いだ松平広忠は織田氏の圧迫を受け、嫡男の竹千代(後の徳川家康)を今川氏の人質に出す
ことを条件に応援を申し入れていた。この時、今川領までの護衛を命じられていたのが戸田氏で
ある。戸田家の当主である戸田康光は(憲光の孫)、今川方の有力な戦国武将であったが
先年今川義元に一門の戸田宣成が滅ぼされたことを恨み、尾張の織田氏に寝返ろうとして
康光は竹千代を今川氏の敵織田氏に届けたため、今川氏の追討ちを受け討ち死にした。
その後今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、今川氏から離反し今川から自立した
西三河の徳川家康に従った。・・・参考資料フリー百科事典「ウィキペディア」

主郭跡 
現在残っている遺構は、広い主郭と、わりと規模の大きい
曲輪・堀・土塁がある。河和城は知多半島の城址で
最も遺構がよく残る城址の一つで有る。
(愛知県史跡整備市町村協議会発行資料)
前方の下方向に横堀があり(急な斜面で降りることは困難)私は降りてみましたが、かなり危険で
ロープを使用しました。下まで降りると知多厚生病院の駐車場に出ます、駐車場から見上げると
城跡は竹やぶに覆われ、確認することはできません。
駐車場・・・・・3台ほど駐車可能設備有り
         名鉄河和駅下車徒歩10分 標高30m程あり眼下に三河湾が望めます。


初代城主戸田憲光の供養塔と言われている。
資料によればこの辺に城大門があり、修行道場があったとされる。
憲光法名 信渓全忠とされ(今川義元より忠義により
「全忠」の号を賜る)この修行道場を全忠寺とされるが、
天保時代水害により現在地に移転されたと資料にある。
現在旧跡さまにあった戸田家の菩提寺全忠寺は河和小学校
の南高台にあり、戸田家の位牌や、地頭様水野家歴代の
墓がある。。
場所・・・美浜町役場より野間に至る道筋にある。旧跡橋の
川沿いにあります。またここより南に城ケ淵を挟んで
河和城跡の森が望める。

城跡への登り道、少し急な階段ですが上りきれば三河湾の
展望で癒されます。

駐車場です、5台位は駐車できます。





十二神社 文明2年(1470年)創建
河和城城主 戸田孫三郎守光の氏神であったとされる。
(資料 尾張恂行記に記されている)

城山の真下にある川ですが、城が存在していた頃は城ヶ
淵と言われていた。城へ物資を運ぶ水路だったのでしょうか?

河和天神社 (創立長禄年間(1457年頃)
戸田孫八郎守光が河和城築城と共に社殿を寄進、福徳・豊作
医薬・婚縁・知恵の霊験あらたかな神を奉納した。当時は
18社を奉鎮したが現在は統合し豊受社・津島社・神明社
八幡社・と天然石の山の神猿田彦の神のみ。
宝物は、古代円鏡天下一在銘二面・刀一振り、城主戸田
孫八郎守光寄進 (備前大富住典之在銘) 槍
 江戸島田住源義助在銘・尾張藩主徳川公弓矢二本寄進とある。
尚宮司は15代 岡田瑛 氏

2012年9月15日土曜日

マンシングウエア女子プロトーナメント!!


アウトの6番205ヤード3番アイアンで、自分が二度と起きない
奇跡のホールインワン出した記念のホールです。
この大会の観戦は三好CCの時からで、岡本綾子・塩谷育代プロ等活躍していた頃からで、スポンサーは変わっていますが歴史あるトーナメントです。

2012年9月10日月曜日

吉良上野介の先祖が築城した??西尾城

西尾城に行ってきました。閉館5分前でしたが係りの方の
ご好意で見学させていただきました。感謝です!!
築城の歴史は古く1221年足利義氏築城の資料があり
当時矢作川をはさんで東条城・西条城築き西条城が今の
西尾城で足利氏は吉良の名字に変更したとの説明があり
東条城は吉良上野介の領地現吉良町に築城された。
吉良上野介はその末裔かも、その家柄で江戸時代優遇
されていたのかもと思わされました。本日は情報的には
収穫がありました。
吉良上野介の菩提寺(西尾市吉良町内)近くに、東条城が復元されています。初期の城で
城と言うより外観は砦そのもの、戦う為の要塞に見えます。織田信長の時代より前の作りで
天守閣のある城ではありませんが見る価値はあります。

2012年9月3日月曜日